2006年

ーーー7/4ーーー 梅雨の晴れ間の常念岳登山

 
29日の木曜日、梅雨の晴れ間をねらって北アルプス常念岳(標高2857M)に登った。この夏に予定している槍ヶ岳登山へ向けた、トレーニング山行第二弾である。

 この山を日帰りで登り切る自信は、正直なところ60パーセントくらいであった。自宅を出るのが午前4時半。稜線上の常念小屋に11時までに着けなければ登頂は諦め、12時までに小屋に着けなければ、その時点で引き返すという時間制限を自らに課した。

 結果的には、順調に運んだ。山頂に着いたのが10時43分。余裕の登頂であった。天気は上々で、360度の展望に恵まれた。やはり目前の槍穂高連峰が圧巻だった(下の画像)。今年は雪が多いようである。

 

  静かな山頂で昼寝をしたり、サンポーニャを吹いたりして楽しんだ。こんな贅沢が許されて良いのだろうかと思うくらい、至福のひとときであった。

 下りはゆっくりと歩いた。少し膝の調子が悪かったからである。トレーニング登山で体を壊しては、本番が台無しになってしまう。慎重に歩を進めた。

 登山口に戻ったのは午後5時。おおむね12時間の行動であった。

 さて、今回の登山で初めて使った道具がある。それはストック。

 実は私は、雪の無い山でストックを使うのに忌避感があった。近頃の登山者、特に中高年登山者は判で押したようにストックを使っている。私が若い頃は、冬山以外ではストックを使うことなどありえなかった。登山道をストックをつきながら歩いている登山者の姿は、違和感そのものであった。なんだか幻滅してしまう光景ですらあった。

 そんな私の気持ちを変えたのは、ある登山家のブログであった。ストックの効用として、バランスの支えと推進力の補助の二つが説明されていた。そして、「変なプライドは捨てて、ストックを使いなさい。一度使えば手放せなくなりますよ」とのコメントであった。

 妙に説得力があったので、その気になった。ストックと言っても、ゲレンデスキーで使うようなものは、向いていない。登山で便利なのは伸縮性のストックである。私は20年以上前に買った、山スキー用の伸縮性ストックを持参することにした。

 ストックを使うといっても、片手で杖のようにして使うのでは不十分である。両手に持つ「ダブル・ストック」が最高のパフォーマンスを発揮してくれる。それは歩き始めてすぐに実感した。

 バランスの支えを得ることで、脚の疲労はおおいに軽減される。さらに、ノルディック・スキーのように後方に向かって押せば、推進力の補助にもなる。これは決してバカにできない効果だ。腕力など脚力に比べれば弱いものだと分かっていても、この威力は認めざるをえない。

 そして、心理面でもメリットがあるようだ。歩くのが楽しくなるのである。歩くという単調な行為は、ときとして気が滅入るような心理的プレッシャーを与えるものである。それがストックを使うことで払拭される。気持ちが前へ前へと進む。これは、腕のポジションが関係しているのかも知れない。スキーで経験されることだが、前腕が体の前に出るような姿勢を取ると、重心は自然と前へ移るのである。

 また、疲れて歩くスピードが遅くなっても、ストックを使えば安定したリズムが刻める。これもやはり、バランスとの関係だろう。ゆっくりとした動作ほど、バランスを取るのが難しい。ストックはこの状況でもまた、おおいに助けになるのである。

 ストックでコツコツ地面を突いて歩きながら考えた。人間も昔は猿のように、両手を地面に触れながら歩いていたのだと。二本足で歩くことは、やはり相当の負担を人に強いるのである。



ーーー7/11ーーー ベイスギの鉋がけ

 ベイスギという材木でベンチ・ベッドを作っている。何故その材種なのかと言うと、注文主の部屋がベイスギで作られているから、それに合わせたということ。ベイスギといっても杉の仲間ではなく、日本のネズコと類似しているとは木工辞典の解説。非常に軟らかい針葉樹材である。

 刃物を使う際に注意しなければならないことの一つは、軟らかいものほど切りにくいということ。例えば包丁で切る場合も、ある程度の硬さがある野菜などは切り易いが、焼きたてのパンのように軟らかいものは切りにくい。

 木材を鉋で削るときも、同じようなことが言える。

 私は家具作りが専門だから、普段は広葉樹を使っている。広葉樹は硬いから、鉋がけをするのに腕力は必要だ。しかし、適切に鉋を調整すれば、比較的簡単に良好な削り面が得られる。硬いものは綺麗に削れるのである。
 
 それに対して軟らかい針葉樹は、鉋を引く力は少しで良いが、綺麗な削り肌を得るのは難しい。材の軟らかさのために、刃先で材がむしれたようになってしまい、艶やかな表面にならないのである。軟らかい木材ほど鉋がけは難しいと言われるのは、そういうことを意味している。

 私が使っている鉋は全て、硬い広葉樹を加工するのに適したように調整してある。例えば、刃先の角度は27〜29度くらいに研いである。それでも、この状態で針葉樹を削っても、今まではほとんど問題なかった。刃をきちんと研いで鋭利にすれば、たいていの材は問題なく綺麗に削れる。そう思ってきたし、経験的にもそれは言えた。しかし今回のベイスギは違っていた。

 どんなに刃を鋭利に研いでも、うぶ気が剃れるほどシャープにしても、削り面が荒れるのである。鉋がけには自信があったので(画像参照)、これはショックであった。いろいろ思案した結果、ベイスキが極端に軟らかいので、私が普段使っている広葉樹用の鉋では綺麗に削るのは不可能だとの結論に達した。

 「これでいいや」という気持ちがあった。他の家具屋がやっても、この程度のことしかできないだろうから、これで勘弁してもらおう。家具としての機能には全く問題ない。見た目にも、言われなければ分からない程度のことである。

 それでも、削りが終わり、組み立てる直前になって迷った。これ以上のことをしようとするならば、新しい鉋を購入して軟らかい材に使えるように仕込まなければならない。この一件だけのためにそのような出費と時間をかけて良いものか。しかも、それで上手くいく保証はないと思えるくらい、相手は手強い(軟らかい)。

 自分では判断がつきかねて、家内の意見を求めた。家内は一言のもとに「迷っているなら最善を尽くすべき。そうでないと、後々まで後悔するわよ」と言った。さらに「そういうことにこだわりを持たなければ、困難な生活をしている意味が無いでしょう」とも言った。

 その日のうちに松本の道具屋へ行って、新しい鉋を買った。入手した状態で刃先の角度は24度になっていた。針葉樹を削るには適切だと思い、その角度のまま研ぎ上げた。そして試し削りをしてみたら、期待はずれの性能だった。刃先角は重要だが、問題はそれだけではないのである。

 翌日、一日をかけて、いろいろ調整をした。台も少しづつ削って、食い付きが良くなるように調整した。試しの材を削っては調整し、また刃を研ぐということを繰り返した。そんなデリケートな調整をするうちに、だんだん調子が出て来た。面白いことに、こういうものは理屈や数値では押さえられない部分がある。やっているうちに次第に馴染んでくる、あるいはこなれてくるということがあるのだ。一日の終わり頃には、そこそこの削り肌が得られるようになった。

 翌日はベイスギの部材の削り直しをした。新しい鉋によって、削り肌はずいぶん改善された。しかし、同じ針葉樹のヒノキやベイツガのような光沢のある肌にはならなかった。私の技術ではこれが限界だと思われた。針葉樹の専門家、例えば建具屋さんや桶屋さんなら、もっと綺麗に仕上げるのかも知れない。一度その方面の名人の技を見たいものだと思った。

 鉋をいじりながら、技術専門校で木工を学んだ頃を思い出した。毎日のように鉋による板削りの練習をした。次第に上達して、綺麗な鉋屑がスルスルと出て来たときの喜びは大きかった。

 職業としてやっていると、いつのまにかいろんな事が当たり前になってしまう。良く言えば「慣れ」、悪く言えば「マンネリ」だろうか。鉋がけにしても、「削れりゃいいんだ」という具合で、経験による力技でねじ伏せるようなところもあったように思う。今回はベイスギのおかげで、初心に立ち返ることができた。



ーーー7/18ーーー ホームページの悩み

 このところ、知り合いの人や、過去私の作品を購入して下さったお客様と会って話をすると、「大竹の家具をもっと世の中に出すにはどうしたら良いか」という話題になることが多い。親身になって私の仕事を考えてくれる人ほどその傾向が強く、また手厳しいことも言われるので有り難い。

 そのような話題の中でほぼ毎回登場するのが、このホームページである。このホームページではビジネスの役に立ちそうもないという指摘をされるのである。そのことについては、私自身が常々感じているので、弁解の余地は無い。なんとかしなければと思うところである。

 ウェブ・デザインの専門家に頼んでみたらどうかという意見もあった。それも有効な手段ではあるだろう。しかしその前に、自分で改善策を考えてみた。いくつかのアイデアがリストアップされた。

 インターネットを利用して上手くビジネスを展開している同業者のサイトを、参考のため覗いてみた。そのうちの一つのサイトは、驚いたことに私が考えた改善策をそのまま実行していた。ただ漫然と見ているだけでは分からないが、当事者意識を持って見ると、それまで気が付かなかったものが見えてくる。他人の工夫が良く理解された。

 このホームページを始めたのはおよそ3年前。その当時と現在では、インターネットをめぐる環境がずいぶん変わって来た。私がホームページに込めた思いも、今となっては過去の物になってしまったようだ。

 私はこのホームページで、私の仕事を紹介すると同時に、私の人となりを理解してもらいたいと考えていた。商売一辺倒のものではなく、あるいは美辞麗句を並べ立てるものでもなく、ありのままの制作活動を、そして私の実生活や物の見方、考え方を、多くの方々に伝えたいと思っていた。そのようにして理解してもらい、共感していただくことが、結果的に良い仕事に繋がって行くと確信していたのである。しかし、残念なことに、理解と共感の手応えは感じられたものの、仕事には繋がらなかった。

 家内は、あまりこの方面に関心がないこともあってか、インターネットなどという金食い、時間食いの世界に関わるのは、ほどほどにしろと言う。そんなことより、本業の制作活動に集中しろと言う。それも一理ある。私の限られた生活時間を、何にどのように割り振るかというのは、現実的な問題である事に間違いは無い。

 さて、この問題はいよいよ悩ましくなってきた。



ーーー7/25ーーー 職場体験

 
先週の水、木曜日の二日間、松本市の中学三年生が一人、職場体験のため工房を訪れた。このようなことは面倒だし、時間も取られるので、普段ならお断りするところだ。しかし、娘の高校の友達の弟ということで、言わばご指名で申し込まれたので、引き受けることにした。娘の顔を立てたという形である。

 職場と言っても、私のところはワンマン工房なので、多人数の社員を抱える企業のようなシステムではない。つまり見てもらっただけで、企業社会、大人社会の片鱗を感じ取ってもらえるような場所ではない。さてどのようなプログラムにするか、悩んでしまった。

 考えあぐねて結論が出ないまま当日となった。やってきた少年と会って話をするうちに、方針が浮かんできた。その方針というのは、行き当たりばったりで思いつくままに説明をし、作業をして見せるということであった。きわめていい加減であるが、それが一番良いように思えたのである。

 私は子供の頃、学校の帰り道に建築の現場があれば、大工さんの仕事を日が暮れるまで見ていた。そして、ちょこっとした木切れを拾って帰るのが楽しみだった。大工さんは黙々と仕事を続け、傍らの子供に見向きもしない。しかし彼の手作業は、多くのことを語りかけてくれたように思う。これが私にとって職場体験だったのかも知れない。

 工房にやって来た少年を見て、私は自分と同じ種類の人間であるような印象を受けた。この少年には、木工の世界の高邁な話よりも、手近な範囲で作業を見せる方が良いと思った。そして、少々の作業体験をしてもらい、できれば簡単なもので良いから、作品を持ち帰ってもらいたいと考えた。作品はこの先少年の傍らで、何かを語り続けるだろう。

 楽しい二日間であった。充実した時間でもあった。少年は木工の世界に引き込まれて行くようだった。その手応えを感じながら、私は自分がプロの木工家として、普段とは違った形で役割を果たすことができて、幸せであった。



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